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男鹿半島入道崎。岬の灯台に登ると、北緯40度のモニュメントと碧い日本海が見えます。
(携帯電話のカメラで撮影)
災害を語り継ぐという意味で、この地で起こった津波の話をしようと思います。
1983年5月26日11時59分、秋田県能代市沖を震源とするM7.7の地震が発生し104人が亡くなりました。うち、100人が津波で命を落としました。大津波警報が発令されたのは地震発生から14分後でしたが、そのとき既に
青森県深浦には地震発生約7分後に引き波として到達、8分後に津波の第1波として到達しました。よく晴れた日の昼間であったため、海岸に出ていた磯釣りや行楽の客が津波に呑まれ、能代港では、護岸工事をしていた作業員34人が犠牲になりました。
地震当日、秋田県の内陸にある小学校から4年生と5年生43人がバス遠足で男鹿半島にやってきました。
海のよく見える所で昼食にしようと、バスを海岸へまわす途中で地震が起きました。しかし、浜に着いた時は揺れはおさまっていて、海は何ごともなかったかのように静まりかえっていました。普段海を見る機会の少ない子供達が思い思いに浜辺で弁当をひろげ始めたそのとき、海面が突然盛り上がるようにして大津波が襲ってきたのです。地震発生から7、8分後のことでした。一瞬にして海へ流された子供や先生を地元の漁民が船を出して懸命に助け上げましたが、13人は帰ることができませんでした。
この出来事のあと「海岸で強い地震にあったら、まず津波を警戒するのが当然ではないか」という声が上がりましたが、「太平洋側の三陸沿岸と違い、日本海側には津波はこない」という誤った言い伝えが現地にはあったので、地震=避難という発想には誰もが至らなかったのです。また、乗車中のバスの揺れと地震の揺れが同調し、大きな地震が起こったという認識が少なかったとも言われています。バスの運転手さん、引率の先生、生徒達、誰か一人でも津波の事を知っていれば、被害は防げたのかもしれません。
私の実妹は津波にのまれた小学生達と同年代で、当時妹は大変なショックを受けました。そして今、姪っ子susukaが同年代となりました。同じ東北地方とはいえ、日本海側に住む現代の子供達には津波の恐怖はテレビの中の出来事でしかありません。
記憶を風化させないこと。どうすれば生命を守れるのかということ。日本海側の子供達にも伝え続けなければなりません。